歴史
北海道大学は明治5年4月開拓使仮学校が東京芝増上寺内に開校したことに始まり、同8年に札幌に移して札幌学校となった。明治9年札幌学校は札幌農学校と改称し、マサチューセッツ農科大学長クラークを教頭に招聘した。明治40年東北帝国大学が設置されるとともに札幌農学校は 東北帝国大学農科大学になった。
歴代教授
初代 平光 吾一 教授 (大正11年-昭和 4年)
大正7年に北海道帝国大学になり、大正8年に医学部が設置された。大正9年6月に最初の建物として解剖学教室が法医学教室および医学部本館とともに落成し た。大正10年4月に、文部省令第28号をもって、医学部が大正11年4月から授業を開始することが公布され、これに伴って大正10年5月に山崎春雄教授 が解剖学第一講座を開講、翌11年6月に初代となる平光吾一教授が第二講座を開講し、第三講座は両教授が分担という形で解剖学教室が発足した。実質的には 両講座が一体となって教育研究の運営がなされた。平光教授の研究対象は、肝臓と神経系の組織学研究からアイヌの人類学的研究にまで及んだ。
第二代 児玉 作左衛門 教授 (昭和 4年-昭和34年)
昭和4年に平光教授は九州帝国大学に転任し、児玉作左衛門教授が第二講座を担当することになった。山崎教授のもとではおもにアイヌの人類学的研究とくにそ の容貌の研究がすすめられ、児玉教授のもとではヒト大脳基底核を中心とした解剖学的研究に主力がそそがれた。これは児玉教授がチューリッヒのモナコフ教授の所で行った研究の継続で あった。顕微鏡切片標本は児玉教授に従って東北大学からきた大場利夫(後の北大文学部教授)が作成した。昭和8年に、アイヌの医学的総合研究のために日本学術振興 会学術部第八小委員会が 永井潜東大教授を委員長として編成され、北大医学部の教授陣を主力として2年間にわたって調査が行われた。このとき山崎・児玉両教授が解剖学の部門を協同で担当した。この総合研究がきっかけと なって、その後、両講座の仕事の主力はアイヌ骨格の収集および人類学的研究に向けられた。この流れは昭和23年山崎教授の退官、同34年の児玉作左衛門教授の退官 の後、伊藤昌一教授と松野正彦教授に引き継がれ、成果の多くは「北大解剖研究報告」に収録されている。
昭和7年7月26、27、28日の3日間、北海道で初めての日本解剖学会集会(第40回)が 会頭山崎教授、副会頭児玉教授のもとに北大で開かれた。演題数77、標本供覧7の計84題、参加者約100名であった。昭和15年には北大医学部に臨時附 属医学専門部が設置され、昭和18年には樺太医学専門学校が設立された。しかし、太平洋戦争が終了するとともに樺太医専は廃止になり、北大医専は昭和25 年に廃止になった。昭和33年には第63回日本解剖学会総会が、会頭児玉作左衛門北大教授、副会頭伊藤昌一北大教授・渡辺左武郎札幌医大教授のもとに 札幌医大を会場として7月4、5、6、の3日間開催された。演題は口演と紙上発表を合わせて277題であった。
第三代 伊藤昌一教授(昭和34-昭和46年)
それまで第一講座の担当教授であった伊藤昌一教授は、昭和34年第二講座の教授となった。同年、第三講座を伊藤隆教授が担当することになり、解剖学教育研究の3講座体制が整った。伊藤教授は、東北大学医学部の在学中に児玉先生から中枢神経系の講義を受けたことが契機となり、児玉先生の下でヒト脳灰白結節の 研究を開始した。その後、児玉・山崎両教授が中心となって推進していたアイヌの形態学・人類学的研究に加わり、アイヌ及びモヨロ貝塚人の頭蓋の研究を精力 的に行った。昭和38年白菊会札幌支部(北海道大学支部)が発足した。昭和43年12月、大正9年に建てられてからほぼ半世紀を経た木造の解剖学教室は鉄筋コンクリー トの北棟3階に移転した。
第四代 児玉譲次教授(昭和46年-平成10年)
昭和35年に北海道大学医学部を卒業した児玉譲次教授が、昭和46年第二講座の第四代教授に就任した。ヒト胎児頭蓋を構成する頭蓋骨および顔面骨の形態発生をテーマとして研究を行った。昭和五十六年、佐々木和信(昭和四十六年北大卒)が第三講座の助手から講師として転入、助教授を経て平成二年川崎医科大学解剖学教授として転出した。松村譲兒氏(昭和五十五年北大卒)は昭和五十九年に第三講座における博士課程を修了後第二講座の助手となり、英国のレスター大学に留学、人体発生学の研究に従事し、共著で人体発生学入門書である”Embryology Coloring Book”を出版した。その後、講師、助教授を経て平成五年に杏林大学医学部教授として転出した。後任として同年、第一講座から井上馨(昭五十三年九州芸工大卒)が講師として移籍、同八年に助教授に昇任。べス・イスラエル・ディーコネス医療センターの整形外科バイオメカニクス研究所に留学後、同十一年に北海道医療技術短期大学部(現・北海道大学大学院医学部保健学科の教授として転出した。平成二年に市川量一(平成二年北大卒、現札幌医科大学講師)が第一講座の大学院を中退して助手に、平成四年には永島雅文(昭和五十九年北大卒)が脳神経外科学講座医員から助手に採用された。永島雅文は平成八年に講師、同十二年に助教授、同十四年に埼玉医科大学教授として転出した。また助手として、高瀬康一(昭和四十七年北大卒)、輪嶋俊一(昭和四十九年北大卒)、須藤純一(昭和四十八年北大卒)が在籍、退職した。平成10年、児玉譲次教授は定年退官した。
第五代 渡辺雅彦教授(平成10年-)
平成10年渡辺雅彦が後任の担当教授に就任した。渡辺教授は、昭和59年東北大学医学部卒業、昭和63年金沢大学医学部助手、平成2年東北大学医学部助手の 後、平成4年より井上芳郎教授の主催する北海道大学医学部解剖学第一講座の助教授を務めていた。研究の方向性も、それまでの人類学的研究から、遺伝子や分子を基盤とした形態生物学・神経解剖学的研究へと大きく変わった。新体制となって大学院生・学部生として研究を行ったのは山田和之(医学研究科、耳鼻咽喉科)、大島昇平(歯学研究科、小児歯科)、山下登(医学研究科、泌尿器科)、深谷昌弘(医学研究科、解剖発生)、佐藤和則(医学部学生)、中村美智子(医学部学生)、山崎美和子(医学部学生)、高崎千尋(歯学研究科、小児歯科)、宮崎太輔(医学研究科、解剖発生)、境和久(理学研究科)、岡田(横山)理恵子(歯学研究科、小児歯科)、立川正憲(東北大学薬学研究科、研究指導委託)、三浦会里子(医学研究科、解剖発生)、大森優子(医学部学生、のち医学研究科解剖発生)、藤原百合(歯学研究科、小児歯科)、野村幸(医科学修士、解剖発生)、内ヶ島基政(医学部学生、のち医学研究科解剖発生)、吉田隆行(医学研究科助教)、江本美穂(医学研究科、解剖発生)、湯浅寛加(医科学修士、解剖発生)、岩倉淳(医科学修士、解剖発生)である。ここから、現在の助教三名(深谷、宮崎、山崎)が誕生している。また事務職員として石村知子、教室立ち上げ間もない頃には、小林(内沢)友子が事務を担当し、技術職員として清水秀美が平成十一年より勤務している。また解剖学第二講座の名称は、大学院重点化に伴い平成十年より生体機能構造学講座・生体構造解析学分野となり、平成十五年から機能形態学講座・解剖発生学分野、平成十九年から解剖学講座の解剖発生学分野となって現在に至っている。平成十八年の教育研究体制の整備により、解剖学講座は解剖発生学分野(旧第二講座)と組織解剖学分野(旧第三講座)の二分野構成となった。同時に、北海道大学白菊会の事務局が、解剖発生学分野から医学部庶務課へと引き継がれた。また、医学部改修に伴い、平成二十年四月より現校舎の北棟二階へと教室が移動した。