2. 過酷な競争を生きぬくシナプス回路 (1)
ミクロの原子から宇宙の果てまでの広大なスケールを俯瞰できる優れた知能や、言語や文字による卓越したコミュニケーション能力、そして道具や機械を創造する能力などの高度に発達した脳機能のおかげで、ヒトは地球上で最も繁栄する動物種となった。しかし、生まれたばかりの状態では、ヒトは目も見えず歩くことすらできず、放置されれば他の動物の餌食になるだけの、最も未熟でか弱な動物種でもある。つまり、ヒトは、脳が進化した分だけ生後に向上させるべき能力を多くかかえるようになり、その成長期に驚くべきスピードで獲得していることを意味する。このような脳機能発達の舞台裏では、「シナプスの刈込み」とよばれる競合と選別に基づく過酷なプロセスが粛々と進行している。特定の遺伝子機能を失わせた遺伝子ノックアウトマウスを用いた脳科学研究から、グルタミン酸を介する情報伝達がシナプス刈込みの原動力になっている事実を明らかにしている。
2.1. シナプス刈込みと脳機能の発達
動物界の「食うか、食われるか」の過酷な生存競争の中では、効率よく獲物を捕える能力や、上手に捕食者から逃げる能力を身につけた個体や種族だけが生き残ってきた。これを脳科学的に表現すれば、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、さわるなどの「感覚能力」に優れ、俊敏に体を動かす「運動能力」を獲得した動物が、生存競争を勝ちぬいてきたと言える。大脳は、目や耳などの感覚器を通して外界で起こっているできごとを正確に認知し、それに基づいて適切な行動戦略を企画して末梢の筋肉を動かす、まさに動物個体の司令塔としての役割を担う脳部位である。生存競争を勝ち抜くために大脳は進化を続け、ヒトで最大の発達を遂げるに至った。
しかし、大脳は、胎児の成長過程の最後に出現してくるため、生まれた時点では、脳細胞であるニューロンは未熟で、ニューロン間の情報伝達の接点となるシナプスも数少ない。ヒトでは、ようやく歩けるようになる1歳の誕生日をむかえるころまで、大脳のシナプスは爆発的に増加する(Huttenlocher et al., 1982)(図1A)。しかし、この時期のシナプス回路は過剰で重複した混線状態にあり、情報を正確に目的地に伝え適切に処理することができない(図1B上)。1歳を過ぎるころから思春期になるまで、あるシナプスは強化されて残り、あるものは消えていくという、シナプスの刈込みが進行する。この刈込みに伴い、回路の混線や重複は解消し、発信元と受信地とが正確につながった機能的なシナプス回路へと改築され(図1Bの左下)、言語・認知・感覚・運動・思考などの脳機能が飛躍的に向上していく。
同様の刈込みは大脳以外の脳部位、例えば練習による器用な運動の実現や運動の上達に関わる小脳でも起こる。小脳のプルキンエ細胞は、その情報処理に働く中心的なニューロンである。このニューロンは、生まれた段階では数本の登上線維により多重支配されているが、成長期の刈込みを経ることで1本の登上線維による単一支配が確立する。この混線状態の解消により、歩行や姿勢などの運動制御機能が格段に向上する。
2.2. グルタミン酸とシナプスの選別
グルタミン酸は蛋白質合成の材料となるアミノ酸の一つである。うま味調味料の主成分としても有名だが、脳の中では強力な興奮作用を持つ伝達物質として働いている。シナプスにおいて、情報を送る側(これをプレ側という)のニューロンの末端部からグルタミン酸が放出され、情報を受ける側(ポスト側)のニューロンはこれをグルタミン酸受容体という分子でキャッチする。グルタミン酸を介するシナプス伝達の働きにより、目や耳や皮膚で捉えた感覚刺激が、興奮という電気信号で大脳や小脳に届けられる。
ここで重要な点は、元々シナプスには、強い興奮が与えられたシナプスの結合が強まり、興奮の程度が弱いとその結合も弱まるという、不思議な性質が備わっていることである。この活動性の違いに基づく選別過程において、グルタミン酸受容体は興奮の大小をポスト側のニューロンに伝える分子装置として機能し、その結果、直接もしくは間接的にシナプス内部にカルシウムイオン濃度の上昇を引き起す。発達途上の未熟なシナプスでは、大きなカルシウムイオン濃度上昇が起きたシナプスにはアメが与えられて結合が強まり、小さな濃度上昇しか起こらなかったシナプスには、ムチが加えられて引き剥がされる。一体何がアメで何がムチであるかの分子的実体は未だ不明であるが、この選別機構により、よく使われる活動性の高いシナプスは残り、あまり使われない活動性の低いシナプスは除去されることになる。こうして、後天的に与えられた環境刺激を、脳はグルタミン酸受容体を通して受取り、やがてその生活史や履歴に応じたシナプスの刈込みが起こるのである。この刈込みの働きにより、年少期にさらされた言語が自然と母国語となり、小さい頃からスポーツの練習を積んできた人だけがK点を越える大ジャンプができたり、トリプルアクセルを飛べるようになるのである。
それでは、シナプス刈込みのメカニズムについて、大脳のバレルと小脳の登上線維の研究から具体的に説明しよう。
2.3. ネズミの洞毛と大脳皮質のバレル
ヒトや一部のサルを除いた哺乳類では、鼻の横や唇の周囲に洞毛(注1)とよばれる長い触覚毛が整然と配列している(図2A)。洞毛は小刻みにピクピクと動き、普通の体毛の数十倍もの感覚神経を備え、接触する物体の特徴を敏感に感じとることができる。洞毛を持つ哺乳類は四足歩行をするので、洞毛の生えた鼻や口が行動の先端の位置にある。したがって、洞毛は、岬の灯台のサーチライトのようにして、顔面はもちろんのこと、ヒトの手や指にも相当する鋭敏な触覚装置として機能している。
大脳の体性感覚野という場所に、この洞毛で捉えた触覚刺激を処理するシナプスの集合体がある(図2B)。ちょうど、酒樽を並べたように見えるのでバレルとよばれる。ネズミの洞毛はAからEまでの5列に並び、それぞれの列に1、2、3、4・・・の行がある。碁盤の目のような配列なのでA3とかD5と番地がつけられている。そして脳のバレルは、洞毛と同じ配列をとり、同じ番地がつけられている。A3の洞毛からの感覚情報はA3のバレルに、D5の洞毛の情報はD5のバレルに集まってくる(図2C)。このように、体の表面と大脳とが感覚神経により配線され、正確に点対点の対応関係ができているのである。体表から大脳皮質までは1本の感覚神経でつながっているのではなく、3本の神経による駅伝方式でつながっている。最初に見つかったのがゴールとなる大脳のバレルであるが、タスキを受け渡す第1・第2の中継地となる脳幹と視床にも同様の構造が見つかり、それぞれバレレット(酒樽の小さいもの)、バレロイド(酒樽に似たもの)と命名された。
ラットやマウスを使ってこれらの構造が出来てくる過程をしらべると、タスキを受け渡す順番に、バレレットは出生日(生後0日目)、バレロイドは生後2-3日目、バレルは生後4-5日目に出現する。出現する前の段階では、例えばA3の洞毛からの感覚神経の投射はA3のバレル予定域を含むもっと広い領域に投射し、周囲(A2, A4, B3, D3など)の洞毛からの神経投射と乱雑にオーバーラップしている。まさに、バレル・バレロイド・バレレットの形成とは、過剰なシナプスが刈込まれた結果、洞毛とこれらの脳領域との間に正確な点対点の対応関係ができあがったことを意味する。
2.4. グルタミン酸受容体とバレルの形成
大脳には、グルタミン酸と結合してポスト側のニューロンを興奮させる機能に加え、シナプス内部にカルシウムイオンを流入させる機能とを合わせ持つ、便利なグルタミン酸受容体が豊富にある(図3A)。これをNMDA型グルタミン酸受容体 (注2)といい、記憶を作ったり消したりすることにも関わる重要な分子である。NMDA型グルタミン酸受容体を構成するNR1やNR2サブユニット遺伝子を破壊したノックアウトマウスは、生まれると間もなく死亡する。死亡する前に脳幹を観察すると、バレレットができていないことが判明した(Li et al., 1994; Kutsuwada et al., 1996)(図3B)。次に、大脳だけでこれらの遺伝子を失ったノックアウトマウスが作成された。すると、このマウスは正常に生存し成長することができたが、バレルが全く形成されなかった。まさに、NMDA型グルタミン酸受容体が、大脳のシナプス刈込み作業を駆動する分子装置であることを証明したのである(図3C)。
なぜ、この受容体がなくなると、生まれた日に死んでしまうのか?ヒトに限らず全ての哺乳類は、母親からオッパイを摂取することで新生児期や乳児期を生き延び成長することができる。このため、哺乳類の唇の周囲は敏感で、新生児期にここに触覚刺激を与えると、それが乳首であれば乳首に向って首を回し、乳首が口に入るとこれをくわえ、唇と舌のリズミカルな運動が起きてオッパイを吸う感覚運動反射が起こる。これを吸啜(きゅうせつ、きゅうてつ)反射という。洞毛を持つ哺乳類では、敏感な洞毛が触覚刺激を感知しこの反射運動を引き起こす。ところが、NMDA型グルタミン酸受容体が奪われてシナプスの刈込みが起こらなくなると、感覚と運動を結びつける反射回路が混線したままの状態となり、機能的な吸啜反射ができなくなるのだと考えられる。事実、この遺伝子マウスに触覚刺激を与えると、リズミカルな吸啜反射が起こる代わりにこの反射に関わる筋肉がぎゅっと収縮したままとなってオッパイが吸えず、栄養摂取障害で死亡するのである。この研究成果は、刈込みによる機能的なシナプス回路への改築が、哺乳類の個体の生存と種の維持に不可欠であることを明示している。
図1「生後発達過程に起こるシナプスの変化」
A. ヒト大脳皮質視覚野のシナプス密度の変化。密度の単位は、縦軸の数値に1011/cm3を掛けたもの。このグラフはHuttenlocherらの論文より作成。
B. 臨界期に進行するシナプス回路の刈込みと拡大縮小を伴う改築。
図2「ネズミの洞毛とバレル」
A. スナネズミを前から見た写真。長い洞毛が鼻の横から生えている。
B. チトクロームオキシダーゼ酵素組織化学で可視化したマウスのバレル。洞毛と同一の配列をもつバレルを、体性感覚野を通る切片上で確認できる。アルファベットと数字を組み合わせて、1つ1つの洞毛とバレルの番地を付けることができる。
C. それぞれのバレルが、特定の洞毛からの感覚情報を処理していることを示す模式図。
図3「NMDA型グルタミン酸受容体とシナプス刈込み」
A. NMDA型グルタミン酸受容体は、NR1とNR2の2種のサブユニットが組み合わさってできる。これにグルタミン酸(Glu)が結合すると、細胞膜を通してカルシウムイオンが流入する。
B. NMDA型グルタミン酸受容体のNR2サブユニットを欠失させると、脳幹のバレレットが形成されなくなる。
C. NMDA型グルタミン酸受容体からのカルシウムイオン流入が、シナプスの刈込みを促進することを示す模式図。